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スチュアート・ブランド、ホールアースカタログと情報共有

スチュアート・ブランド(Stewart Brand)は、1960年代にサイケデリックスのLSD(俗称アシッド)で目覚め、ケン・キージー一行のアシッド・テストにかかわった後、『ホール・アース・カタログ』(whole earth catalogue)を発行し、世界中の文化や自給的生活やパーソナル・コンピュータとエコロジーを知らしめる。カタログは1972年に全米図書賞を受賞するが、カタログの葬式を行い資金を社会に還元するとして資金を託された平和活動家のフレッド・ムーアは、ホームブルー・コンピュータ・クラブをつくりクラブからアップル・コンピュータが誕生し、自分が懸命に作ったプログラムをクラブで共有されたビル・ゲイツはコピーの不条理さを訴えた。ブランドは1980年代には、『ホール・アース・ソフウェア・カタログ』を発行、現在(?未来?)のコンピュータネットワーク社会の縮図のような研究を行っていたMITメディアラボを取材した『メディアラボ』を発行する。インターネットがなかったから、『ホール・アース・カタログ』を作ったんだ。


メディアの語源は medium、視えないものを媒介させること。
アラン・ケイレオナルド・ダ・ヴィンチは音楽を「不可視の顕現」と呼んだが、この言葉はソフトウェアのほうによりふさわしい。(中略)わたしが”メディア”という場合、とくにコンピュータのことを指しています [1]

アラン・ケイは少人数が集まって声で教える学校に、本(BOOK)が登場したのに、本さえ未だ古めかしい教育方式にとりいれられていないと指摘する。

紀元千三百年、まだ印刷が発明される以前には、ギルドに属していない人間はどこかの部屋へいき、自分に話しかける人間の言葉に耳を傾けました、これは学校と呼ばれました。そこへ”B・O・O・K”――”Basic Organization Of Knowledge”という、ソリッドステート方式、容量二・五メガバイト、運搬きわめて容易、一メガバイトあたり一ドルという低価格の素晴らしい装置が発明されました。(中略)今世紀になっても、この道具をほんとうの意味でカリキュラムに組み込むことすらもできていないのです。(中略)現代の学校とは、どのようなものでしょうか?三〇人の人間が他の人間が話すのをきく部屋――まるで中世そのままじゃないですか!
(アラン・C. ケイ『アラン・ケイ』浜野保樹監訳、鶴岡雄二訳、アスキー、1992年。138‐139ページより引用。ISBN 978-4756101075。(原著 Personal Dynamic Media, 1977. and Microelectronics and the original English version and reprinted, 1977. and Computer Software, 1984. and Learn vs. Tearching with Educational Technologies, 1983))

地域

アメリカ東海岸にあるのはハーバード大学とMIT(マサチューセッツ工科大学)でこの2校は直線距離で1kmぐらいしか離れていない(地図)。
アメリカ西海岸のカルフォルニア州、まずパロアルト周辺は、スタンフォード大学、その研究所のスタンフォード調査研究所(SRI)、ヒューレット・パッカート(HP社)があり、ケン・キージーがサイケデリックスを摂取した病院があり、バンドのグレイトフル・デッドが初期のころから活動していた場所である。コンピュータに関連した場所としては、ケプラー書店から約半径8kmにエンゲルバートの研究所、スタンフォード調査研究所の人工知能研究所、ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)、ホームブルー・コンピュータ・クラブなどが入る [2]。パロアルトから、左上のほうへ少し行くとヒッピーが集まったサンフランシスコがありヘイト・アシュベリー、ゴールデンゲイト・パーク、ビート・ジェネレーションの開花したシックス・ギャラリーもある。

西海岸で、反戦、環境保護、個人のコンピュータ(パーソナル・コンピュータ)の思想、サイケデリックス、ヒッピーなどカウンターカルチャーが融合して爆発したような状態が起きる。

ジム・ファディマンの手ほどき

ジム・ファディマンはハーバード大学で社会関係論を学び、1960年にパリにてハーバード大学で担当教授だったリチャード・アルパートの手ほどきを受けてLSDでトリップした [3]
ファディマンはスタンフォード大学に入り、電気工学教授のウィリス・ハーマン(Willis Harman)の「ヒューマン・ポテンシャル」という授業をとろうとしたが満員になっていた [4]。しかし、ハーマンにシロシビン(マジック・マッシュルームのサイケデリック成分)の経験があると告げたところハーマンの助手になることができた [5]

国際高等研究所

アルフレッド・M・ハバド大尉は早くからのLSDの擁護者でシリコンバレーの先駆的な技術者がLSDを使うことに大きな影響を与えている [6]
1950年代後半のハーマンのLSD体験もハバドの手引きによる [7]。ハーマンはのちにSRIの教育政策研究センターに迎えられ未来学部門を率いることになる [8]

1956年4月 [9]、技術者のマイロン・ストラロフ[10]、ハバドの助けでLSDを試し [11]、深い無意識にの中に浸かりこんだと感じる体験をして、LSDを人類の進歩を促す強力な道具であり、世界の問題に対する回答だと確信した [12]。1961年にストラロフはアンペックスの技術者で会社の計画推進者という地位を捨て、「国際高等研究所」を設立しその後4年間、500ドルでLSDと創造性に関する研究課題に参加できるという方式で、シリコンバレーの優秀な技術者350人以上にLSDによる最初の実験を行う [13]。副会長はハーマンだ [14]

ファディマンは、国際高度研究財団というストラロフがLSD研究のために設立した財団の研究者にもなった [15]。財団の取締役はアルフレッド・M・ハバドで、医師ではなく技術者が主導していた [16]

ファディマンはスタンフォード大学卒業後、財団でLSD摂取によって人格がどう変わるかを研究し、153の事例から、「攻撃性を抑えられた69%、対話するようになった69%、自分や他人が理解できるようになった88%、自分を尊敬できるようになった71%、対人関係が改善した72%、不安が軽減した66%、世界の見方が新しくなった83%」などの変化を報告している [17]

スチュアート・ブランドのトリップ

ブランドはスタンフォード大学に行ってから軍隊に入ったが1962年に除隊し [18]、国際高等研究所を通じて、ファディマンにLSDによるトリップのガイド役をしてもらい二人は友人になった [19]
ブランドはファディマンとスタンフォードのコンピュータ・センターに行き、世界初のシューティングゲームに熱中する若者を見て衝撃を受けた [20]

スチュアート・ブランド当時、私が関わったいくつかの出来事は、社会、文化の領域での新たな、おそらくは重要な価値の創造と結びついている。我々が(当時は合法だった)サイケデリック・ドラッグを使い始めた60年代初頭、それは確かに全く新しい体験だった。一方では同じ頃、(マサチューセッツ工科大〈MIT〉で開発された)スペースウォーのようなゲームに見られるコンピューター利用が広まっていった。私はその両方の流れに関わっていた [21]

アシッド・テストからホール・アースへ

ブランドはLSD体験からアメリカ先住民の文化に興味をもち [22]、小説『カッコーの巣の上で』 [23]を読んで作者のケン・キージーにネイティブ・アメリカンの写真を送り [24]、キージーらが主催した、LSDでトリップしながら参加者が音楽やアートなどさまざまな活動をするアシッド・テストに関わるようになる。ブランドはオルダス・ハクスリーの『知覚の扉』 [25]を読み [26]、ネイティブ・アメリカンの信仰対象であるサイケデリックス・サボテンのペヨーテの洗礼を受けていた [27]。1964年から [28]、ブランドはテープで音楽を流しながら、インディアンの生活を映したスライドを映写し [29]「アメリカはインディアンを必要としている」という題名のプレゼンテーションを行うようになる [30]。アシッド・テストの専属バンドであったグレイトフル・デッドは、はじめワーロックス(魔法使い)と呼ばれた [31]。このアシッド・テストでマルチメディアという言葉が使われた。グレイトフル・デッドのギターボーカルのジェリー・ガルシアはこう回想する。

映画フィルム、奇怪なつなぎ方をしたテープ・レコーダー、複雑な操作をしてトリップめいた音を出させるスピーカーなど、ほんとうに不思議なものがたくさんあった。そういった装置そのものが、生きて命を持っておたがいにさまざまに反応しあっているようにすら思えた。(中略)いろんなことが同時におこっていて、そのなかで多くの人たちが、なにがおころうともそれをかたっぱしから受け入れていき、しかも、受け入れるだけではなく、自分からもそのなかになにかをつけ加えていた。(中略)そのとおり、誰もが、クリエートしていた。(中略)テレビや映画、あるいはいまのロック・ショウでは、ようするにステージのまんなかに人々の視線が向けられていて、サウンドはステージから逆に人々のほうに放たれている。(中略)アシッド・テストでは、あらゆる方向にむかって、いろんなことがおこっていた。
(ジェリー・ガルシア、チャールズ・ライク『自分の生き方をさがしている人のために』新装版、片岡義男訳、草思社、1998年。(原著 GARCIA:A Signpost to New Space, 1972)。57-58ページより引用。ISBN 978-4794208286。)

『ホール・アース・カタログ』を着想

ある日、ブランドがLSDを”少々”やっていたときに、地平線が丸いことに気づき、地球全体の写真があれば地球環境における人間の位置づけがわかり、そこからさまざまなことを論じることができのではないかと思いついた [32]

NASAに地球全体の写真の提供を求め、「なぜ我々はまだ、地球全体を見たことがないのか?」と書かれたバッジを(アメリカ西海岸から)東海岸までヒッチハイクして売りまくった [33]。これほどの行動を駆り立てるほどの衝撃をなぜ受けたのかを理解するには、ある環境保護活動家の発言が助けになると思われる。

「この世代のエコロジストの多くが、サイケデリック文化から発展してきたのは偶然ではない(中略)六〇年代も自然主義的要素はあったのに、完全に無視されてきたが、なかには、自然分娩や有機食物などの取り組みも含まれていた。最初にヒッピーが、よく晴れた日にアシッドを飲んでゴールデンゲイト・パークで仰向けに寝転んだとき、そう、そのときに本当に理解したんだ。すべてに生命があり、僕らはそれを守る責任があるということを。そうしてアメリカの環境保護運動が成長しはじめたんだ」
(マーティン・トーゴフ『ドラッグ・カルチャー-アメリカ文化の光と影(1945~2000年)』宮家あゆみ訳、清流出版2007年。ISBN 978-4860292331。365ページより引用。(原著 Can’t Find My Way Home, 2004))

1968年、ブランドは『ホール・アース・カタログ』を発行する。もともとは現代の工業化社会に依存した生活を低減するための道具を提供しようとして作られたが、情報を簡単に自由に共有することで計り知れないほど価値が高まるという点も打ち出していた [34]。ただ地球のことが書いてあるだけでなく、人々の声を載せることでいろんな人が執筆者となった。

1970年3月19日には、スタンフォード大学に勤めていたマヤ歴の研究者のホゼとロイディーンは「ホール・アース・フェスティバル」を開く [35]

1970年4月22日、環境問題への関心を示すアースデイがスタンフォードの学生の呼びかけではじまり、世界中で毎年イベントが開かれるようになる [36]。1990年には、日本でもアースデイが夢の島で行われる [37]

パーソナルコンピュータとの出会い

1968年12月9日、後に「すべてのデモの母」と呼ばれるほどの衝撃を多くのコンピュータ技術者に与えたダグラス・エンゲルバート(Douglas Engelbart)のNLSというコンピュータプログラムの一般公開が行われ、マウス(エンゲルバートが開発した)、文書のリンク、画像や動画によるコミュニケーションによってコンピュータは、単に計算するものではなくコミュニケーションと情報探索の道具となった [38]
エンゲルバートが、ほかの研究所の仲間を画面の中に呼び出したき、ブランドがマルチメディアのプロデューサーとしてその仲間を撮影し、この偉大なデモに立ち会った [39]。エンゲルバートの研究所は、ヒッピーの自由奔放とした雰囲気があった。1970年代に入るとエンゲルバートの構想が伝わってこないことに不満を持った研究者は、その頃できたゼロックスのパロアルト研究所などに移っていった。

パーソナルコンピュータを紹介

コピー機で市場を独占していたゼロックスが優秀な技術者を集めてコンピュータの研究所パロアルト研究所(PARC)をつくる。1972年12月、PARCでつくられたアルト(Alto)というパーソナルコンピュータについて、ブランドが『ローリング・ストーン』誌で記事を書くことではじめて一般に存在が知られるようになる [40]
未来のコンピュータとサイケデリックスを比較、コンピュータが解放され新しいメディアとなると論じた [41]

『ホール・アース・カタログ』の葬式

ブランドは『ホール・アース・カタログ』を前回よりすごいものにすることがものすごくプレッシャーになり、カタログの葬式をすることにした [42]。会場を借り2万ドル用意し、カタログを始めた時と同額の資金を社会に還元すれば面白いことができるのではと期待した [43]
全国から『ホール・アース・カタログ』の支持者が1000人以上集まり、お金を配る話で議論が起こっているとき、この状況は世界中で金が引き起こしている害悪と同じだと思ったフレッド・ムーアは1ドル札を取り出し燃やした [44]。議論は続き、ムーアは、情報を共有することで人を直接助けられると述べ、お金ではない違う制度を打ち立てる考えを明確にし、後にムーアが主導する情報を共有するコンピュータ・クラブの精神となっていった [45]。資金はムーアに預けられた [46]
『ホール・アース・カタログ』は再び続くんですが、いったん葬式が行われました。

フレッド・ムーア

1956年、カルフォルニア大学でROTC(陸軍士官候補生課程)の義務化に反対する全校投票を呼び掛けROTCは否決され、8年後の60年代学生運動のフリースピーチ運動という大学が学生の政治運動を制限することに対する抵抗運動につながる [47]

徴兵拒否の座り込み運動

1959年、カルフォルニア大学に入学したフレッド・ムーアの父は軍人でムーアは父の仕事を通じて広島と長崎の原爆のことを知り、司法長官に「徴兵を拒否し愛という法に基づきすべての人類に対して義務を果たす」というような内容の手紙を送る [48]。そして、大学内で「強制的なROTC反対 カルフォルニア大学が良心を尊重すべき、という私の信念に従い、ここに7日間の断食を行う」と書いた看板を立て、抗議運動をする [49]。国中の関心を呼び記者が押し寄せ、60年代に各地で繰り広げられた反戦運動の口火を切り、アメリカの大学の反戦運動の性格を変えた [50]
1962年、カルフォルニア大学で徴兵拒否を勝ち取り数学専攻で再入学するが、1963年には大学をやめて平和運動組織の非暴力行動委員会の活動家になり、平和行進に参加してから委員会の共同体農場に移った [51]
ムーアは、パロアルトのあたりに戻ってきて、ピープルズ・コンピュータ・クラブに出入りし、自分用のコンピュータがほしい人のためのホームブルー・コンピュータ・クラブにかかわるようになる。当時学生だった、出版社アスキーの創業者の西和彦はピープルズ・コンピュータ・クラブの出版物を日本にも流通させる [52]

アップル・コンピュータ

スティーブ・ジョブスは、ヒッピー共同体に入ったり [53]、悟りを求めてインドに行ったり [54]、LSDを試して人生のなかで極めて重要な体験と感じたりした後に [55]、ホームブルー・コンピュータ・クラブで個人用のパソコンを作ってそれをもとに起業していた。
ゼロックスはジョブスのアップル社に投資していたので、1979年には、ジョブスはPARCを見学できアルトをみて興奮しアップルで同じようなものをつくりはじめる [56]。PARCの研究者は、ジョブスと共に訪れた人をただ趣味でコンピュータをやっていると思っていたが、話し始めると、他社のグループとは違って十分に研究していることがわかり、研究者同士が共鳴しあいアルトについて何から何まで説明した [57]
PARCにいたアラン・ケイは、ダイナブック計画という構想を持っており、片手で持てる対話型グラフィックコンピュータで、2MBのテキストが処理でき、絵を書いたり、絵を動かすこともでき、ほかのダイナブックや図書館につながる安いコンピュータというものを考えていた [58]。ケイは1980年代ぐらいには、アルトより強力で安価な持ち運びができるコンピュータが登場すると言っていたがPARCの仲間はSF話だと思っていた [59]。ジョブスは、PARCからアラン・ケイやほかの研究者を引き抜く [60]。1980年代にアップルはマッキントッシュというマウスで操作できるウィンドウを持ったパーソナル・コンピュータを発売することになる。
ケイはゼロックスにはアルトを製品にする賢さはなかったと述べている [61]。ゼロックスはパソコンを市場に出すことをやらなかっただけでなく、コピー機の市場も日本のキャノンに浸食され驚いた [62]

ホール・アース・カタログはインターネットだ

ブランドは、ハッカーという革新的で政治を嫌い冒険好きな人たちを発見し、これはアシッド・テストを行っていたケン・キージーらのメリー・プランクスターズに共通していた [63]
1985年、ブランドは『ホール・アース・ソフトウェア・カタログ』を発行する。サンフランシスコには、ザ・ウェルというコンピュータによる電子会議のシステムがあり [64]、これは1985年に『ホール・アース・カタログ』から立ち上がったものである [65]。1987年にはアメリカは250万台のパソコンがモデムを通してネットワークにつながっていた [66]

1987年、ブランドはMITのメディアラボを取材した『メディアラボ』 [67]を出版する。MITメディアラボでは、コミュニケーションの構造を変化させ、世界を変えてしまうことを目的にしていた [68]。MITメディアラボの創立者ニコラス・ネグロポンテは [69]、「サウンドでも、映画でも、ビデオでも、アナログの領域ではもう仕事をする理由はないと思いますね。伝達手段はみんなデジタルになるでしょう [70]」と述べている。コミュニケーションメディア(TV、電話、レコード、映画、新聞、雑誌、本、コンピュータ)は [71]デジタル化されることで、ノイズが入らないデータとなり、データは簡単にほかの伝送手段に移住でき、光ファイバーケーブル、人工衛星、さまざまな手段で伝達できるようになる [72]。そして、デジタルデータはあらゆる機器に転送できるようになるというのが進歩の方向性である。MITメディアラボは多くの日本の大企業からも出資を受けて研究しており、日本にも影響を与えている。

ブランドは、インターネットがなかったから『ホール・アース・カタログ』を作ったと述べている [73]。伊藤穣一は、アレン・ギンズバーグティモシー・リアリーが言っていたことを具体的に行動するための参考文献として必要だったけど、今はインターネットがあると述べている [74]。『ホール・アース・カタログ』は、『WIRED』に分派し [75]、日本ではネット上の「WIRED VISION」 [76]へと発展している。

野村訓市は、ブランドに影響を受けてクリエイティブな人たちの考え方や人生を集めた『ホール・ライフ・カタログ』 [77]を出版している [78]。これはサイケデリックにも焦点が当たっています。

『ホール・アース・カタログ』にかかわったハワード・ラインゴールドはこう述べている。

ウェブが面白かったのは、アマチュアの人たちが、本当に自分にとって価値のあることを、みんなに知らせなければ、という思いで作っていたからなのです。それがなくなったら、インターネットはほんとにテレビみたいになってしまいます。
(中略)
マイクロソフトやソニーのようなお金と権力がある大きな企業は、消費の世界がすべてであると人々に思い込ませるパワーを持っているのです。わたしたちは非常に難しい問題に直面しているのです。インターネットは魔法の道具ではありません。正しく使うことが必要です。人々の意識を開花させるようにそれを使っていくことで、私たちの望む改革を現実のものにすることができるのです。
(中略)
大切なのは人々との繋がりを作っていくこと。次に必要なのは、人々にどのようにそれを使って自分の考えを発表していくかを教えること。それを促進すること。
最初に伝えるべきは、インターネットを使うときに、消費しているとか、サーフィンしているという意識を持たずに、自分は発行人である、表現者である、という意識を持たせることです。
ハワード・ラインゴールド・インタビューより引用。(WIRED VISION、1998年2月1日))

サイバースペースの主役はネットワークにつながった一人一人であり、よりよい世界にするために自分の好きなことを書き続けることである。


スティーブ・ジョブス
スタンフォード大学卒業式辞
日本語字幕版

最後のほう(12:50から)でホール・アース・カタログに影響を受けたことを告白します。

スチュアート・ブランド『情報は自由〈タダ〉を求める(Information Wants To Be Free)』と言ったのが1984年。それからちょうど20年になるが、今もなお、この考え方は有効だと思っている [79]

参考文献

  • ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」 カウンターカルチャーが育んだ夢』服部桂訳、NTT出版、2007年。ISBN 978-4757101951。(原著 What the Dormouse Said:How the 60s Counterculture Shaped the Personal Computer Industry, 2005)
  • スチュアート・ブランド『メディアラボ-「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。(原著 The Media Lab, 1987)
  • 藤波努「経験知/暗黙知-個人・社会の中の暗黙知をいかに伝達するか」杉山公造・下嶋篤・永田晃也・編著『ナレッジ・サイエンス-知を再編する64のキーワード』北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科・編集、紀伊國屋書店、2002年。ISBN 978-4314101530。80‐81ページ。
  • 遠山亮子「SECI[セキ]モデル-知は4つのプロセスで発展する」杉山公造・下嶋篤・永田晃也・編著『ナレッジ・サイエンス-知を再編する64のキーワード』北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科・編集、紀伊國屋書店、2002年。ISBN 978-4314101530。16‐19ページ。

外部リンク

出典

出典
^1 アラン・C. ケイ『アラン・ケイ』浜野保樹監訳、鶴岡雄二訳、アスキー、1992年。96、130ページ。ISBN 978-4756101075。(原著 Personal Dynamic Media, 1977. and Microelectronics and the original English version and reprinted, 1977. and Computer Software, 1984. and Learn vs. Tearching with Educational Technologies, 1983)
^2 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。7ページ。
^3 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。93-94ページ。
^4 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。94ページ。
^5, ^15, ^16 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。95ページ。
^6, ^11 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。51ページ。
^7, ^8, ^14 マーティン・A.リー、ブルース・シュレイン『アシッド・ドリームズ-CIA、LSD、ヒッピー革命』越智道雄訳、第三書館、1992年。ISBN 978-4807492039。222-223ページ。
^9, ^12 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。52ページ。
^10 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。45-46ページ。
^13 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。51、55ページ。
^17 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。96ページ。
^18, ^20, ^26 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。97ページ。
^19 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。93ページ。
^21, ^79 平和博(サンノゼ) ロング・ナウ協会代表、スチュアート・ブランド氏に聞く-(下)「情報は、なお自由を求めている」より引用。(asahi.com)
^22, ^28, ^30 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。218ページ。
^23 ケン・キージー『カッコーの巣の上で 改訳新版』岩元巌訳、冨山房、1996年。ISBN 978-4572008534(原著 One Flew over the Cuckoo’s Nest
^24, ^63 マーティン・トーゴフ『ドラッグ・カルチャー-アメリカ文化の光と影(1945~2000年)』宮家あゆみ訳、清流出版2007年。ISBN 978-4860292331。140ページ。(原著 Can’t Find My Way Home, 2004)
^25 オルダス・ハクスリー『知覚の扉』河村錠一郎訳、平凡社ライブラリー、1995年。ISBN 978-4582761153。(原著 The Doors of Perception, 1954. Appendixes of Heaven and Hell, 1956)
^27 レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在-地上の楽園を求めて』《角川選書》高橋巌訳、小杉英了訳、1993年。ISBN 978-4047032453。97ページ。(原著 IN SEARCH OF HEAVEN OF EARTH, 1991)
^29 ジェリー・ガルシア、チャールズ・ライク『自分の生き方をさがしている人のために』新装版、片岡義男訳、草思社、1998年。(原著 GARCIA:A Signpost to New Space, 1972)。61ページ。ISBN 978-4794208286
^31 レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在-地上の楽園を求めて』《角川選書》高橋巌訳、小杉英了訳、1993年。ISBN 978-4047032453。100ページ。(原著 IN SEARCH OF HEAVEN OF EARTH, 1991)
^32, ^33, ^36 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。219ページ。
^34 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。220ページ。
^35 ホゼ・アグエイアス、アグエイアス・ロイディーン『「新しい時間」の発見 甦るマヤの預言-人類はなぜ“偽りの時間”の中にいるのか』高橋徹訳、風雲舎、1997年。ISBN 978-4938939045。44ページ。(原著 Discovering the New Time, 1997)
^37 「EARTH DAY」『zavtone』12号、1999年4月。66-67ページ。ISBN 978-4771332126
^38 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。212-213ページ。
^39 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。216-217ページ。
^40 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。334ページ。
^41 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。335ページ。
^42 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。272-273ページ。
^43 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。273ページ。
^44 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。274-276ページ。
^45, ^46 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。274-278ページ。
^47 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。58ページ。
^48 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。58-63ページ。
^49, ^50 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。64ページ。
^51 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。263ページ。
^52 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。ISBN 978-4757101951。359ページ。
^53 スティーブ・ウォズニアック『アップルを創った怪物-もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝』井口耕二訳、ダイヤモンド社、2008年。235-236ページ。ISBN 978-4478004791。(原著 iWoz: Computer Geek to Cult Icon: How I Invented the Personal Computer, Co-Founded Apple, and Had Fun Doing It, 2006)
^54 リーアンダー ケイニー『スティーブ・ジョブズの流儀』三木俊哉訳、ランダムハウス講談社、2008年。13-14ページ。ISBN 978-4270004210。(原著 INSIDE STEVE’S BRAIN, 2008)
^55 ジョン・マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』服部桂訳、NTT出版。5ページ。ISBN 978-4757101951
^56, ^57, ^59, ^60, ^62 スチュアート・ブランド『メディアラボ』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。230-234ページ。
^58 スチュアート・ブランド『メディアラボ』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。141ページ。
^61 スチュアート・ブランド『メディアラボ』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。145ページ。
^64, ^66 スチュアート・ブランド『メディアラボ』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。51-52ページ。
^65, ^75 ハワード・ラインゴールド・インタビュー(WIRED VISION、1998年2月1日)
^67 スチュアート・ブランド『メディアラボ-「メディアの未来」を創造する超・頭脳集団の挑戦』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。(原著 The Media Lab, 1987)
^68 スチュアート・ブランド『メディアラボ』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。12-14ページ。
^69, ^71 スチュアート・ブランド『メディアラボ』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。9ページ。
^70, ^72 スチュアート・ブランド『メディアラボ』室謙二訳、麻生九美訳、福武書店、1988年。ISBN 978-4828811765。44ページより引用。
^73 平和博(サンノゼ) ロング・ナウ協会代表、スチュアート・ブランド氏に聞く-(下)「情報は、なお自由を求めている」(asahi.com)
^74 伊藤穣一インタビュー(WIRED VISION、1998年2月1日)
^76 WIRED VISION
^77 野村訓市・編集『sputnik-whole life catalogue』イデー、2000年。ISBN 978-4900940086
^78 「SPUTNIK : whole life catalogue」野村訓市さんインタビュー(Flying Buzz vol.3より)(Words from Flying Books)

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